明治維新から150年を記念して
林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん
歴史学者磯田道史に勧められて
見事に書き上げた原作の
最高視聴率は15,5%
奄美大島で思想形成と行動原理を得た
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奄美は当時、西郷が生まれ育った鹿児島や
斉彬の秘書官として行動した京、大阪、江戸とも
気候・風土・文化・風習・言葉が全く違っていた。
そういう意味では外国ともいえた。
外界と遮断された「外国」で約五年間生きたことが、
他の幕末・維新の英傑とは違った色の人格になったのであろう。
一度目の奄美大島竜郷に流されたときは、
「孫子」「韓非子」「春秋左氏伝」「通鑑網目」
「近思録」「言志録」を持って行ったことが分かっており、
その他の書物も多数持って行ったであろう。
西郷が目指し、なりたかったものは聖賢である。
人生において聖賢の道を行うということである。
ゆえに読む本は聖賢になるためのノウハウ書であり、
それに類する、
あるいはそれに必要と思われる本を選んで集めた。
何と言ってもノウハウ書であるから目的は明確である。
西郷は18歳から27歳ころまで郡方書役を務めていたが、
大久保ら数人の仲間と「近思録」の共同研究をして
いたときがあった。
近思録の中に「聖人、学んで至るべきか。
可なり」という文がある。
聖賢というものは、
学んで到達することができるものであろうか。
可能である、できる。
その可能性においては、皆聖人になる可能性が
あると言っている。
西郷の目指す聖賢の道というものは、
形としてあらわれる物質のように見えるものではない。
島津斉彬が西郷のどこを気に入ったか
幕末という当時でも、ごく一部の人の目標であり、
目標とするような人は変人奇人と言われたであろう。
後年、「島津斉彬ほどの英明な藩主が西郷のどこを
気に入って、取り立てたのであろうか」と尋ねられて、
西郷は「自分もどこを気に入ってもらったのか
見当がつかないが、あるとすれば、
何十回も建白書を提出したことぐらいしか
思い当たらない」と言っている。
何度もせっせと書いた西郷の建白書が、
ある目的を持っていた斉彬の目に止まり、
西郷は活用すべしと歴史の表舞台に
登場させられたのである。
島民に対する治世の善しあしも観察していた。
晴耕雨読を常とし、聖賢の書を読むことや
心の鍛錬は怠らなかった。
また日々の島民の生活状況や藩の島民に対する
治世の善しあしも観察していた。
島民の困窮をなんとか救ってやれないものかと
思ったろう。
果たして何も権限を持たない一介の潜居人の己が、
何ができ何がでないかということも真剣に考えたであろう。
また、いにしえの聖賢が自分と同じ立場にあったら、
どう考えどう行動するであろうかと
思いめぐらせたであろう。
「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉、
それに対する己の行動力「孟子」にある、浩然の気、
惻隠の情とは、言葉とそれに伴う己の行動。
聖賢の書にある字義を研究し、それを行動に
至らせるための心の鍛錬。
これらのことを日々の生活の中に取り入れた
三年間の島での生活であった。
二度目の島流しは罪人としてであり、
運命に自決を迫られているのではないかと
思うほど過酷であった。
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最初の遠島命令書には奄美大島より先にある
徳之島と指示されており、そのほかの指示はなかった。
徳之島について二か月半が過ぎ生活も落ち着きかけたころ、
西郷の妻が子供二人を連れて奄美大島の竜郷から
便船に乗って会いに来た。
西郷が鹿児島に召還されたときはまだ生まれて
いなかった子供も伴っていた。
妻子が徳之島に着いた日に、くしくもその同じ船で
鹿児島からさらに遠くの島である
沖永良部島への遠島命令書が徳之島の代官所に
届けられていという。
今度の命令書には「囲い入れ」と指示されており、
妻子と再び会うこともかなわないまま独り船の中に
ある囲い牢に入り、沖永良部島でへ向けて出船した。
沖永良部島は切腹につぐ重罪であった。
着いたとき、囲い牢はまだ出来上がってい
なかったので船の中で二日待った。
牢の広さは二坪ほどで、床と天井があるだけ。
四方は牢格子で囲ってあり、メジロを入れる竹で
作った鳥かごを巨大にしたようなものである。
それが代官所の近くの空き地にすえられていた。
四方に壁がないのであるから風雨は容赦なく入り、
野ざらしの状態であった。
西郷は三度の食事のほか水も湯も求めず、
起きている限りは昼夜端然として坐って読書したり
瞑想したりしていたと伝えられている。
昼夜問わず風が吹き抜け雨は中まで打ち込み、
ハエ、蚊、虫も入り放題の過酷な環境の
中で何を考えていたであろうか。
西郷の持参した「言志録」の中に
(人のいない所でも身を慎んでいく修養工夫は、
自身が大人数の集まりの中にいるような気持ち
でいなければならない)とある。
囲い牢はまさしく閉居であり慎独の場所である。
日が経つにつれ西郷の髪と髭は伸び放題となり、
頬はこけ、痩せ細っていた。
獄舎の番人として西郷に接し、その行動を見ていた
島役人である
土持政照(島民としては最高の役である
与人〈村長〉と間切横目《郷中観察役》)は、
「このままでは西郷が衰弱して死んでしまう」
と代官に救済の手はないものかと申し入れた。
代官は「遠島命令書のとおりであれば、
いたしかたがない」とつっぱねた。
土持政照は西郷が先君斉彬の竉臣であり、国事のために
働いたことやそして遠島になった経緯も知っている。
西郷臣日々接するうちに西郷の人柄や人間的
魅力にふれて尊敬するようになっていた。
そこで何とかしてでも助けてやりたいという思いに
至り、もう一度代官に頼み遠島命令書を見せてもらった。
厳重なる囲いとだけあってほかの指示はされていない。
そうであるなら、屋根や壁のある家の中であっても、
厳重に牢格子で囲った「囲い牢」にすれば
問題ないと考えた。
土持政照は自分の私財で西郷の住める家を造り、
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土持政照に命を救われた
その中に囲い牢を設けて厳重に管理する
という条件で代官に申し出、代官の許しを得た。
これによって、土持政照にが新築した
教室ある家に西郷がは移り健康回復した。
なんといっても家の中である。
また、西郷を慕う土持政照が管理者である。
ある程度の自由はできたであろう。
月照との入水事件で自分だけが生きたこと、
奄美大島竜郷でのこと、徳之島でのこと、
沖永良部島で野ざらしの囲い牢で死の淵にいたこと、
土持政照に命を救われたこと、これらの一つひとつの
出来事は、天は自分に対し何を暗示したくて存在させたのか。
その天意を知ることはできないのか。天意を知る
ことができれば、それに従うことができる。
まとめ
囲い牢でノウハウ物を読むことができた、
また、土持政照に命を救われたことの恩義と、
天意を知るために現在ある環境を全て認め、
そして誠意をもって眼前の変化するあらゆる
事象に対応しようと西郷は全力を尽くした。
そこに私心を入れない訓練をすることが、
天意を知り得る方法であると思ったなである。
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