明治維新から百五十年を記念して
林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん
歴史学者磯田道史に勧められて
見事に書き上げた原作の
最高視聴率は15,5%
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西郷を政府は政権から追い落とし
1871年(明治四年)六月、西郷は木戸とともに
参議となる。これにより代表参議となった
西郷を中心に廃藩置県の準備が進められた。
同年七月九日木戸孝允の屋敷で西郷、木戸、
大久保、井上馨、山県有朋、西郷従道(西郷の弟)、
大山巌が出席した秘密会議が行われ、
そこで廃藩置県の断行が決定
七月十四日に東京にいた知藩事五十六人が
宮中に呼び出された、廃藩置県の詔書が下された。
これにより二百六十一藩は廃止され、
全国に三府三百二県が置かれた。
知藩事は免職となり各県(旧藩)には新政府から県令(地方官)が
派遣され、地方行政にあたることになった。
廃藩置県を成功させた新政府
廃藩置県は各藩の知藩事にとって寝耳に水であったが、
新政府の首脳たちが心配したような
騒動や反乱は起こらず非常にスムーズに進んだ。
「第二の維新」とも呼ばれる廃藩置県を成功
させた新政府は、さっそく政治組織を改変し、
太政官を正院・左院・右院とし、その下に
省庁を置いて中央集権体制を完成させた。
成立して三、四ヶ月後の1871年(明治四年)
十一月七日には岩倉・大久保・木戸ら一行
遣欧米使節が横浜を出発した。
それから一年八カ月後に帰って来たら直ちに
征韓論争に突入するのである。
大久保は西郷を利用している。
西郷自身も度量が大きいから利用されると
分かっていながらも、日本がよくなることで
あれば大いに利用されようと思ったであろう。
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しかし、西郷も生身の人間であるから、
征韓論争で下野させられてからは、
日本を大久保流の政治手法に任せても
よいものかと少なからず思ったであろう。
帰国後の大久保の行動を見ていると、
留守政府の西郷や江藤、板垣・副島と
いったいわば
西郷派に、政府内に権力基盤を
作らせてはならないという考えからの行動である。
廃藩置県後の組織改変で、大久保は自ら全国の
徴税権と財政を掌握する大蔵省の長となり、
廃止された民部省の機能・権限までも大蔵省に組み入れ、
中央集権化された地方官の任免権を
大蔵省に持たせて自己の立つ基盤を強大にした。
洋行に際しては、その基盤を堅守させるため
右腕ともいえる井上馨を大蔵大輔(次官)とし、
後顧の憂いをなくした。
しかしながら、帰国して見ると井上は司法卿江藤新平に
汚職事件でたたかれ、大久保がせっかくつくった
権力基盤が弱体化していた。
大久保は西郷を政権から追い落とす決意をした。
征韓論は緊急の案件ではなかったはずであり、
西郷らと是々非々を話し合い、
大久保の力をもってすれば解決できない問題では
なかったはずである。
しかし、大久保は自己の政権構想の権力基盤の低下を
恐れ慌てて感情的になり、西郷を政権から追い落とす
ことを決意した。
西郷の性格も計算し、自ら参議となり征韓論争に臨んだ。
結果は大久保の勝利である。
西郷の言う「廊堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、
些とも私を挟みては済まぬものなり・・・
真に賢人と認める以上は、直に我が職を譲るほど
ならでは叶うはぬものぞ・・・」は、
大政治家大久保利通をもってしても難しいことである。
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まとめ
大久保の権力基盤の低下を恐れ慌てて感情的になり、
西郷を政権から追い落とす策をとった。
権力闘争である。
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