明治維新から150年を記念して
林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん
歴史学者磯田道史に勧められて
見事に書き上げた原作の
最高視聴率は15,5%
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兄弟の契りを結んでほしい
西郷は、私費を投じ新しい牢舎を造って死の淵から
救ってくれた土持政照のありあまる好意と親切に
深い恩義を感じ、
「兄弟の契りを結んでほしい」と申し出て兄弟の縁を結んだ。
沖永良部島での牢舎の生活は1年ヶ8月余りになっていた。
元治元年(1864年)2月22日、
突然弟信悟と親友の吉井幸輔が召還状を携え
藩の蒸気船胡蝶丸で迎えに来た。
この思いがけない召還は、柴山龍五郎ら十数人の
有志の藩士がが久光の前で一同うち揃って切腹する
覚悟で西郷の赦免を嘆願したことによるものである。
時勢は西郷を必要とし、歴史の舞台に引き戻そうとしていた。
島を去る時、西郷は義弟土持政照に
島津斉彬から拝領した羽織をプレゼントしようとした。
嬉しさのあまりあわてていたのか、自分の小脇に抱えて
いるのに気付かずに、あちらこちら羽織を探したという。
西郷は自分のことより人のことを考えてしまう
帰途奄美大島へ寄り妻子と会い、さらに同じ罪で
遠島になったのだからという理由で、
大島のすぐ近くにある喜界島に立ち寄り、まだ赦免されていない
村田新八を一緒に鹿児島に連れて帰った。
西郷の性格なのだろうか、自分のことより
ついつい人のことを考えてしまう。
常識であれば、まだ罪も許されていない村田新八を
無断でわざわざ連れ帰ることなどしない。
自分自身がやっと赦免され帰れるとき、新たに罪を
得るような行為は普通の人は損得を考えて決してしない。
これにより西郷は再び幕末動乱の歴史の表舞台に
登場し、討幕という目的のため、その仕事を
完成させようと一心不乱に突き進んで行く。
西郷は3月中旬、京都に到着し軍賦役(軍司令官)に任命される。
西郷が成し遂げた仕事を事例として列挙
(1)1864年(元治元年)禁門の変起こる。薩摩藩兵を
率い長州軍と戦う。このとき銃弾で脚を負傷する。
(2)同年9月 勝海舟と会う。
(3)同年10月 第一次長州征伐が行われる。
征長軍総督・徳川慶勝より長州処分の一任をとりつけ
広島に出向き、長州藩首脳と会い寛大な処分とする。
(4)1865年6月(慶応元年)坂本竜馬と会う。
(5)1866年1月(慶応二年)長州藩士・桂小五郎と
会い薩長同盟を結ぶ。
(6)イギリス公使パークスと会談する。
(7)イギリス公使通訳アーネスト・サトウと会談する
(アーネスト・サトウは日本語を話し、候文も漢字も書けた)
(8)1867年6月(慶応三年)後藤象二郎・坂本竜馬・
中岡慎太郎らと会談し薩摩・土佐両藩が盟約を結ぶ。
(9)1867年12月 王政復古令が宣言される。小御所会議
(10)1868年1月(慶応四年)鳥羽・伏見の戦い
(11)同年2月 東征軍大総督参謀として東征する
(12)山岡鉄舟と駿府で会う
(13)勝海舟との会談による江戸城無血開城
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島津斉彬は琉球を通して、いち早く欧米列強の
帝国主義の波が日本に押し寄せて来ているという
ことを知っていたであろう。
そのことを西郷にも教え、またそれに対して日本が
どう対処すべきかを教えていたはずである。
西郷は勝海舟からアメリカの情報も聞いたであろう。
フランスが幕府に何を目的として援助しているか、
実態はどのようであるか聞いたであろう。
西郷の見事な舵取で日本が植民地にならず
イギリス公使パークスやアーネスト・サトウとも会い、
さまざまな情報を収集し日本の進むべき道を
考えたはずである。
日本の国土が欧米列強の植民地にならず、
一坪の土地さえ租借されなかったのは、
隙あらばと虎視眈々と狙っている欧米列強の中で
西郷が見事な舵取りをしたおかげと言ってよい。
大久保も岩倉も京にいて宮廷政治に集中し、
全方位に目を配れなかった。
討幕も大事であるが、欧米列強に侵食されずに
討幕を果たし、
スムーズに新政府に移行させるための戦略戦術をもって
全体を見ることができて、なおかつ要所要所を押さえていったのは、
独り西郷の身であったといってもよい。
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まとめ
目的のために一心不乱に突き進んでそれを成し遂げた人。
土持政照に深い恩義を大事にした西郷の気持ちを
強く感じました。
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