西郷どん 沖永良部島が改心した地、土持政照との縁

明治維新から百五十年を記念して

林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん

歴史学者磯田道史に勧められて

見事に書き上げた原作の

最高視聴率は15,5%

 

 

「西郷どん」が改心した地 沖永良部島(鹿児島)

 

 

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西郷隆盛といえば東京・上野の銅像が有名だが、

浴衣姿で犬を連れた銅像を見た未亡人の糸は

「こげんなお人じゃなかった」とつぶやいたという。

 

身長六尺(約180センチ)恰幅かっぷくがよく大きな目玉で知られた英雄は

「あんなぶざまな身なり」で

人前に出なかったという思いがあったからだ。

 

NHK大河ドラマ「西郷どん」人気で沸く鹿児島市から

南に550キロ。隆起サンゴ礁でできた沖永良部島に

行ったのは、糸と結婚する3年前、西郷が34歳で島に

流された当時の座像があるからだ。

 

それはやせ衰え、吹きさらしの牢内にいる。

昭和にできた像をもし糸が見たら声を失ったろう。

 

流刑前から西郷には死を恐れぬ勇はあったが、

家近良樹著「西郷隆盛」によると、人をとことん

追いつめる理詰めなところがあった。

 

死罪に次ぎ重い遠島になったのも薩摩藩の国父・

島津久光の政策を批判し、「地ゴロ」(田舎者)と

言ったためとされる。

 

それが幕末の1862年から一年半の獄中で改心、

坂本龍馬をして「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」

と評せしめた人物に成長し、維新の英傑になる。

 

西郷の島暮らしをたどった。

 

上陸の碑がある島の北岸、伊延港から、西郷の歩いた

道を30分ほど行くと島の南岸にある牢跡に着く。

 

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小さな島の4畳ほどの牢が西郷の住みかになった。

西郷南洲記念館前に復元された牢は頑丈だが、

当時は松材を格子状に組んだ粗末なもの。

 

食事はご飯と塩、漬物だけで、太陽がさしこむ

厠付き牢では蚊やハエにも悩まされた。

風が強いと砂や波しぶきが牢に吹込み、みるみるやせ細った。

 

それでも罪人としての分にこだわり、差し入れにも

「お気持ちだけ頂戴いたします」と頑なで、

ひたすら沈思黙考した。

「敬天愛人」の精神培う

 

島で始めた漢詩では<辛酸骨に透りりて吾が真を看る>と詠んでいる。

彼を変えたのは、南の島の人々の温かい心だった。

 

西郷直筆の書「静観」を展示する和泊町歴史民俗資料館の

先田光演館長(75)は「人の恩を感じたことで

西郷は再び生きたい、と思った」と語る。

西郷は島役人、土持政照に心をひらく

その人とは、牢を巡検していた島役人、土持政照である。

彼は2カ月ほどで死に瀕した西郷を見かねて、

藩命では「囲いに召しこむ」とあるのに吹きさらしの

牢ではおかしい、と代官に談判し、清潔な座敷牢に移した。

 

その頃から西郷は土持政照に心をひらく。

牢ごしに歓談したり、島の子に心の教育を

したりして健康を回復。

 

土持政照と義兄弟の契りまで交わす様子は、

記念館で人形や模型を使ってわかりやすく再現されている。

 

罪人を慕ってくれる島民の心と、牢での詩や書を通じて
思索が、己をつつしみ、天を敬い、人を愛する

「敬天愛人」の精神に結実、帰藩後の大業に

つながったと先田館長は分析する。

 

南洲橋、南洲神社がある牢の近くにはもう一つ、

観光ホテル東の前に、町の誇りの記念碑がひっそりと立つ。

そこには「土持政照誕生の地」と刻まれていた。

 

サンゴ礁に囲まれた島には、断崖絶壁が美しい田皆岬や

サンゴの岩を波が削った景勝「フーチャ」、昇竜洞を

はじめとする大鍾乳洞群など見所が多い。

 

しかし牢にいた西郷は、自然を味わう暇もなく

1864年、島を離れ激動の幕末に飛び込んだ。

 

農を大切にした英傑がもし大自然と接していたら・・・。

島はロマンをもはぐくむ。

 

 

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まとめ

 

南の島の人々の温かい心と牢生活での土持政照への

恩義から、天を敬い、人を愛する「敬天愛人」の

言葉は生まれたのだと思う。

 

沖永良部島ではNHK大河ドラマで一躍有名となり、

歴史民俗資料館、昇竜洞、田皆岬など見所が多いので

立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

 

 

 

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