チバニアン見学会 現地の写真撮影 civanian kigakuki genchino shamisana

チバニアン見学会 現地の写真撮影

チバニアン見学会の写真撮影  現地まで案内にしたがって向かう途中の参加者

チバニアン見学会 現地の写真撮影 civanian kigakuki genchino shamisana

チバニアン見学会 現地の写真撮影

チバニアン見学会の写真撮影 茨城大学教授 岡田誠教授の現地調査など何度となく現場を訪れたこれまでのご苦労などをお話をされました。現地では参加者に詳しくご説明をして頂きました。


NHK大河ドラマ西郷どん 西郷と大久保の人物像

こんにちは
WordPress見本市ブログです

明治維新から百五十年を記念して

林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん

歴史学者磯田道史に勧められて

見事に書き上げた原作の

最高視聴率は15,5%

 

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西郷と大久保の人物比較

 

二人は薩摩藩(鹿児島)の英傑として並び称され、

よく人物を比較され評されている。

 

政治には、政権を担うトップの個性が強く反映される。

個性が強ければ強いほどその現れ方は顕著で、

西郷と大久保においても討幕という大目的遂行の間は、

お互いの役割を果たすということで、

それはプラスの方向に作用した。

 

しかし、新国家建設の方法論においては大きく

個性の違いが表れた。

西郷は時間をかけて道義国家の建設を目標としていた。

 

本当は建設したかったのであろうが、

何分新政府は薩長土肥の寄り合い所帯であり、

それぞれが勢力争いを演じていた。

 

そんな中で自己の目標を達成するには

権力闘争は避けて通れないことになる。

 

そうすれば成立間もない新政府での内紛となり、

諸外国につけこまれるスキを与えかねない。

 

そこで西郷は「志を得れば民とこれに由り、

志を得ざれば独りその道を行う」という

自分より仕事ができる立派な人が現れたら、

自分の職をその人に直ちに譲る人などいない。

 

誰がなんと言おうと、せっかく手に入れた

地位は死んでも離したくないのが本音であろう

大久保も欧米列強から日本の侵食を防ぐのは、

欧米の進歩した科学技術を受け入れ産業をお興し、

欧米に追いつくことであるとしたのは正しい。

 

しかし、それは西郷のように「自分の職を譲る」

というのではなく、自分が思っていることを

自分の力で行うということである。

 

自分が思っていることを自分の力でとなると

少なからず、「自分のために」自分のやりやす

いように」が入ってくる。

 

なぜ西郷が「自分より仕事ができる立派な人が

現れたら、その人に自分の職を直ちに譲るほどで

なくてはいけない」と考えるのであろうか。

 

究極は国や国民のことを考え、それをよりよくするためである。

 

自分より良い人に担当させた方がよくなるのは当たり前で

ある大久保の権力欲は相当強かったと思われる。

 

それは西郷へのライバル心からであり、

嫉妬心からでもあったと思われる。

 

西郷は、当代一の英明と言われた藩主斉彬に

見出され、いきなり政治の表舞台で活躍し、

大久保ら同志の羨望の的となった。

 

大久保は斉彬亡き後、藩を支配するのは

久光であると見て、久光に近づき取り入り

少しずつ権力の中枢に入っていった。

 

久光の政治手法である統制主義を大久保も久光に

近づくにつれ、自分のものとして学んでいった。

 

幕末に薩摩藩士が薩摩藩士を上意で打ちに行くという

寺田屋事件は、大久保、久光の統制主義の事件である。

 

大久保は久光を動かし利用し藩内における

権力基盤を確立し、併せて岩倉具視と図り

朝廷内における信頼も確保していった。

 

幕末も押し迫ると、西郷は前戦の司令官としての

役割を果たし、大久保は岩倉とともに朝廷内部の

工作や宮廷政治を主な仕事とした。

討幕が案外スムーズに行き、新政府が樹立された。

 

大久保は盟友として朝廷をリードすることが

できる岩倉を得ている。

新政府で自らの経綸を発揮したかったであろう。

 

表舞台に出て何よりも自分が西郷以上の存在で

あることを証明したかったであろう。

大久保の性格は統制好きで統制主義である。

 

後に内務省を設立しその長官である内務卿に

なったとき、大久保が省内にいるかいないかは

省内の静かさでわかったという。

 

いる時は、水を打ったように静まり返っていたという。

ある意味、人の良い西郷は何かと大久保に利用された。

 

 

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廃藩置県や留守政府を任されたことがそうである。

 

西郷は政府内の権力闘争にはあきあきしていた。

鹿児島に引き籠もっていたかった。

 

しかし、これをやってくれ、あれをやってくれと

無理矢理引っ張り出された。

 

留守政府を二年近く守っていたら、いたで、約束を破って、

あれをしたこれをしたと、すでに決定していた遣韓使節諭も

完全にひっくり返された。

 

明治六年の政変いわゆる征韓論争に限って言えば、

大久保が権謀術数により西郷の追い落としを謀った事件である。

根底には大久保の西郷への嫉妬がある。

 

ただでさえ人望のある西郷にこれ以上権力や人望が

集中すれば、政権の主役の座を奪われてしまうという

大久保の危機感があった。

 

要は自分の望む政治を自分がやりやすいように

したかったのである。大久保は国家と国民を

統制しやすいフランス流の警察国家を目指した。

 

明治六年十月の政変で西郷一派が下野したあと一か月後には、

大久保は内務省を自ら新設しその長となった。

 

内務省には大蔵・司法・工部各省から警察権や地方行政に

関する権限(県知事や警察の幹部の任免権が内務卿にあった)

 

殖産興業、通信交通、土木といった広範な権限が移った。

また大久保は警察力の充実をはかるため、

川路利良をフランスに派遣し警察組織を学ばせた。

 

さらに、それまで司法省に属していた警察機構を

整備独立させ警視庁を設立し、その初代警視総監に

川路利良を任命した。

 

これにより、内務卿・大久保のもとには強大な権力が集中した。

その後日本は良いも悪いも、大久保の個性である威厳・重厚・

堅実を尊ぶ官僚的国家を形成し、それは戦前まで続いた。

 

斉彬もまた父業興を無理矢理隠居させ藩主になったからこそ、

自己の政策を遂行できた。家康の好みが二百六十年続いた

ように、大久保の好みが戦前まで続いたように、

いったん敷かれたレールは大変革でもない限り

これは世界の歴史が証明している。

 

西郷はいってみれば反逆児である。

久光(藩)に楯突き犯罪人となった。

幕府(将軍)に楯突き討幕を果たした。

 

明治政府(天皇)に結果としては楯突き、

西南戦争を起こし敗れ賊軍の将となった。

大久保は権力の側から落ちたことはなく、

いわば権力に従順である。

 

大久保は久光を動かし利用することができたが、

斉彬を動かすことはできない。

 

これは人間の持つ力量の違いである。

西郷がよくて大久保が悪いというのではない。

 

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まとめ

 

西郷と大久保は討幕という大目的はお互の役割を果たした。

その後、新国家建設の方法論においては、大きく個性の違いがでた。

大久保は国家統制主義を貫き通す人。

西郷は、政府内の権力闘争にはあきあきした様子が伺える。

人の良い西郷は大久保に利用されて最後は追い落としにあってしまい

権力者の行うとても皮肉なことである。

 

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