チバニアン見学会 現地の写真撮影 civanian kigakuki genchino shamisana

チバニアン見学会 現地の写真撮影

チバニアン見学会の写真撮影  現地まで案内にしたがって向かう途中の参加者

チバニアン見学会 現地の写真撮影 civanian kigakuki genchino shamisana

チバニアン見学会 現地の写真撮影

チバニアン見学会の写真撮影 茨城大学教授 岡田誠教授の現地調査など何度となく現場を訪れたこれまでのご苦労などをお話をされました。現地では参加者に詳しくご説明をして頂きました。


NHK大河ドラマ西郷どん 西郷内閣は約2年間で終わった

こんにちは
WordPress見本市ブログです

明治維新から150年を記念して

林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん

歴史学者磯田道史に勧められて

見事に書き上げた原作の

最高視聴率は15,5%

 

 

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西郷を首班とする,留守政府が政権担当

 

1871年(明治四年)11月10日から1873年(明治六年)9月13日
全権大使の岩倉が帰国するまで約2年間は西郷を首班とする
留守政府が政権を担当した。

 

遣欧米使節団は岩倉、大久保、木戸ら48人という大陣容であった。

 

西郷にすれば、政権発足間もないこの時期に幕府が結んだ不平等条約の
国々を視察し、欧米の進んだ文化産業を見て回らなくてはならない
のかと思ったであろう。

 

また、これだけの国費を使う必要があるのかと思ったであろう。

 

このころの政府の意思決定は大久保と岩倉主導であった。

 

廃藩置県終了後、政府は直ちに(明治四年七月二十八日)
太政官職制を制定し、中央集権化を図った。

 

太政官は正院、左院、右院で構成され、正院を最高意思決定機関とし、
太政大臣に三条実美、参議に西郷、木戸、板垣、大隈を選んだ。

 

左院は立法機関とし、議長に後藤象二郎、副議長に江藤新平が任命され、
右院は行政機関とし、外務、大蔵、兵部、司法、神祇じんぎ

文部、宮内の八省を置き、外務卿がいむきょうに岩倉、大蔵卿に大久保が据えられた。

 

この布陣を見ても大久保が新政府の台所である財務を掌握しており、
岩倉とコンビであることがわかる。

 

穿うがった見方をすれば、外交など分からないと思われる公家出身の
岩倉が外務卿に就任しているのは、

はじめに岩倉を大使とする
遣欧米使節ありきで人選されているように見える。

 

また、大久保は外遊するにあたり、大蔵省を右腕ともいえ
る井上馨を大輔(次官)にして自分の留守をまかせた。

 

この時期大久保は自ら率いる大蔵省に従来の民部省を合併させた。

 

これに伴い、地方行政、交通・通信や地方官の人事権といった民部省が
持っていた権限までも大蔵省にあわせ持たせ、自らの権力基盤を強大にした。

 

征韓論争後の内務省設立の手法とおなじである。

 

さらに岩倉、大久保ら使節団は留守政府に対して外遊中は重要な政策や
人事はみだりに行ってはならないという十二か条の約定書を結ばせた。

 

ここにも、外遊している間に自らの権力基盤を失っては大変だ
という西郷とは似ても似つかない権力欲が見えるようである。

 

西郷内閣(留守政府)の陣容は、太政大臣・三条実美、参議
・西郷、板垣、大隈、司法卿・江藤新平、外務卿・福島種臣、

 

兵部大輔・山県有朋、大蔵大輔・井上馨であった。

 

法令の制定と社会改革を断行

 

政治は生き物だということで、西郷は約定書を無視し次から次に
法令の制定と社会改革を断行していった。

 

 

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西郷は約定書を無視

 

その主なものは次のとおりである。政治・経済の分野:太政官制の改定、
兵部省を廃し陸海空軍二省の設置、徴兵制の布告、地租改正の布告、

 

国立銀行条例の制定、太陽暦採用、新紙幣発行、府県裁判所の設置、
田畑永代売買解禁学問・宗教の分野:学区制・義務教育制からなる学制、

 

キリスト教の解禁、神社仏閣における女人禁制の廃止、僧侶の肉食・妻帯
・長髪の許可社会・風俗の分野:士族の帯刀義務を解除・断髪を許可、

 

武士による切り捨てを禁止、華族・士族・平民相互間の通婚の許可、
四民平等による平民並代などの被差別身分・職業の解放令、

 

水吞百姓などの解放・農民の職業自由選択の可、人身売買の禁止。

 

地方官による権利侵害を人民が裁判所に救済を訴える制度の新設
これらの西郷内閣の仕事は、わずか一年十か月足らずの間に行われている。

 

まさに驚異的なスピードで改革がなされていった。

 

このほかにも、1872年(明治五年)には、「東京日日」「日新真事誌」
「郵便報知」などの有力新聞が創刊された。

 

この間の西郷内閣の施政は「封建の身分制度を解体した」
「封建の鎖から解き放された、社会一般に自由に自由を謳歌する
空気があふれた」

 

「自由で清新な流れが人々を勇気づけた」と評価されたという。

 

また、結婚や就業、土地売買、日本における信教の自由、平等の思想といった
現在にも継承されている維新の近代化は、この時期に実施されたのである。

 

西郷は奄美大島に流されているとき、奄美にあった
奴隷制度(家人ヒザの制度)の廃止に苦心していた。

 

この家人制度が奄美で公式に廃止されたのは1871年(明治四年)
、西郷内閣における被差別身分・職業の解放令の布告の結果である。

 

西郷が奄美大島にいる間、この制度があることに心を痛め、
自身でも世話になっている竜家の一族やそのほかの有力者を説得し、
家人・ヒザの解放に務めた。

 

代官所の役人の木場伝内を協力者にして制定を
廃止できるよう代官に働きかけてもいた。

 

西郷が一介の遠島人であり何も権限がないとき、
自ら尽力し多数の家人やヒザを解放させたことも事実である。

 

また、西郷政権であったときにこの制度が
布告により廃止されたのも事実である。

 

細かい心配りができる西郷であり、
また「敬天愛人」の思想からしても、

 

真っ先にこの制度を廃止して民を救おうと思ったはずである。

 

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まとめ

 

西郷は、わずか、1年10ケ月足らずで驚異的な

速さでこれだけの改革を断行されたのには、

民を勇気づけたと評化される。

 

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最後までお読みいただきありがとうございました

 

 

 

 

 

 

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