明治維新から150年を記念して
林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん
歴史学者磯田道史に勧められて
見事に書き上げた原作の
最高視聴率は15,5%
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西郷は県農政部の事務職員
薩摩藩下級城下士西郷家の長男に生まれ、
彼の下に三男三女がいた。
二男が吉次郎、三男が慎吾(後の従道)
四男が小兵衛、長女は͡琴、二女は高、三女は安。
十五のとき、元服して通称「吉之助」とし隆永と名乗った。
十八のとき、郡方書役助に任用された。
家禄も低く大家族で貧乏であった。
薩摩藩ではこのような貧困藩士の家計を助けるために、
その子弟が十七、八になると、本人の持っている
技能に応じて役目を授けて手当を与える制度があった。
西郷は能筆であった
西郷は能筆であったため、郡方書役助に採用され、
後に郡方書役となった。約十年間この職に就いていた。
西郷は郡奉行に仕えたが、最も彼に影響をあたえたのは、
最初に仕えた迫田太次郎右衛門利済であった。
迫田は学問もあり見識も高く、無欲恬淡で
気骨稜々の武士だった。
西郷は元来正義感が強く篤実で情のあつい性質なので、
迫田奉行ともよく気が合い尊敬していた。
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迫田は西郷に「民は慈しむべきもの」と教えた。
役目で奉行その他の上役に随行して、よく郡内の農家を巡視して
歩いたが、病気や貧困で苦しんでいる家を見ると自分の手当を
割いて恵むことがしばしばあった。
奉行に話をして凶作で年貢を納められない農家の
年貢を軽減してもらったこともある。
朱子学の書である「近思録」を大久保正助、吉井友実、
伊地知正治、有村俊斎ら仲間と共同研究した。
西郷は郡方書役として、まめに田畑をまわって農民達と接し、
重税にあえぐ農民の苦しさを現場で体験した。
後の話になるが、西郷が征韓論で敗れ下野し、
鹿児島に帰っていたとき、帖佐という村で百姓一揆がおこった。
それを聞いた西郷は県庁に出向いて、時の県令大山綱良に
自分に一揆のとり鎮め役をさせてくれと申し込んだ。
農民の要求が通るように骨を折ろうと約束
当時西郷は帰国しているとはいえ、現職の陸軍大将であり
元師だったので、これではさしさわれがあるとして、
県庁から雇員の辞令を出してもらい、
そして帖佐村に出向いた。
そこで、西郷は当時の戸長(後世の村長)から委細の話を聞き、
できるだけ農民の要求が通るように骨を折ろうと約束した。
ところが、戸長は苦渋の表情で西郷にこう尋ねてきた。
自分たちとしては、農民と役所の間にいて役所の
指示に従わなければならない立場ではあるが、
農民の申し出が道理にかなっている場合が多い。
このようなときはどちらの見方をすべきか
西郷は「いつも農民を目の前にしていて農民の
苦しみが分からないようでは姦史である。
もちろん農民の味方をすべきである」と答えたという。
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まとめ
西郷は二十代のとき、農民や弱い立場に有る者に
取った行動力は地位や名誉お金を得たい大人になっても
若者にある命の軽々しさを常にもっていた。
竜馬の言う大馬鹿者だったのである。
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