チバニアン見学会 現地の写真撮影 civanian kigakuki genchino shamisana

チバニアン見学会 現地の写真撮影

チバニアン見学会の写真撮影  現地まで案内にしたがって向かう途中の参加者

チバニアン見学会 現地の写真撮影 civanian kigakuki genchino shamisana

チバニアン見学会 現地の写真撮影

チバニアン見学会の写真撮影 茨城大学教授 岡田誠教授の現地調査など何度となく現場を訪れたこれまでのご苦労などをお話をされました。現地では参加者に詳しくご説明をして頂きました。


NHK大河ドラマ西郷どん 目指した明治国家は国民が主体性を持った民主主義であった

こんにちは
WordPress見本市ブログです

明治維新から150年を記念して

林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん

歴史学者磯田道史に勧められて

見事に書き上げた原作の

最高視聴率は15,5%

 

 

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西郷の目指した明治国家とは

 

民主主義の戦後日本のような国であろう。

ただし、敗戦によりアメリカに押し付けられた民主主義ではなく、

日本民族・国民が主体性を持った民主主義を

西郷が目指した国家像だろうか。

これが西郷が理想とする堯・舜の治世に近く、

『遺訓』にある西郷の言葉、

 

性格、そして「敬天愛人」の思想を併せ考えると、

西郷がめざした国家は、主体性を持った上での

現在の日本のような民主主義国家ということであろう。

 

西郷の考えた新国家建設の手順を見てみよう。

第一に新国家の基本の経営方針を決めることである。

 

260年続いた幕藩体制から新しい体制を作らなければならない。

戊辰戦争もあったが内戦と言えるほどでもなく、

討幕は江戸城の無血開城により一年もたたず終了した。

 

幸いに欧米列強の干渉も受けなかった。

これをよしとし、

日本を世界の中でどういう国にしていくべきかという基本方針を

決めることが第一になすべきことと考えた。

 

それは『遺訓』八項で次のように述べている。

「広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、

先づ我国の本体をえ風教を張り然して

後徐しずかに彼の長所を斟酌するものぞ。

 

しからずしてみだりに彼れに

ならひなば、国体は衰退し、

 

風教は萎靡いびして匡救きょうきゆうす可からず、

後に彼の制を受くるに至らんとす

 

広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化を目指して

進もうと思うならば、まずわが国の本体をよくわきまえ、

風俗教化の作興に努め、そして後、次第に外国の長所を

取り入れるべきである。

 

そうでなくて、ただみだりに外国に追随しこれを


見ならうならば、国体は衰え風俗教化はすたれて

救いがたい有り様になるであろう。

 

そしてついには外国に制せられ

国を危うくすることになるであろう

 

しかし、西郷以外はそうは考えなかった。大久保、

岩倉、木戸といった政府首脳は、欧米列強の

 

強大さを恐れるあまり、いち早く彼らを真似ることを

第一とした。明治になって、洋行した政府のある高官が

 

西郷に「西郷さんも洋行して欧米の文明に触れ、

見聞を広められたらどうですか」と言ったっという。

 

この高官は西郷を頑迷固陋がんめいころうな過去の人物のように考え、

欧米の進んだ科学技術を目の当たりにしたら少しは目が覚める

だろうとでも思っていたのであろう。

 

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信長は宣教師フロイスから地球儀を贈られ、

地球は丸いと本質的に分かったという。

 

西郷は信長レベルの人間である。外国に行かずとも、

欧米列強の本質を見抜きその科学技術のレベルも

 

ある程度は把握していたはずである。薩摩藩では

五代友厚らをイギリスへ留学させ、

 

そして1867年(慶応3年)の第二回パリ万国博覧会に

家老・岩下方平を派遣し「日本薩摩琉球国太守政府」

 

と名乗らせ、独立国として参加させていた。

彼らをとうして、イギリスやフランスの社会体制や

 

科学技術の程度も知っていたであろう。レベルの高い

勝海舟の目で見たアメリカの情報、

 

そして西郷自身があったイギリス公使パークスや

その通訳のアーネスト・サトーと会うことで列強の

 

外交政策と欧米人のものの見方や考え方を分かっていた。

 

さらに、なによりもこれらより以前、島津斉彬の

秘書官として将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動で

 

動いているとき、西郷は主君であり師でもある斉彬を

通して欧米列強の情報を知り、日本を改革し欧米に

 

対峙できる国にするための手順を教えられていた。

しかし、1858年(安政5年)7月16日に斉彬は病により

 

死去,明治維新になる十年前のことである。

 

斉彬がもう少し長く生きていたら、維新も違った形に

なったであろうといわれるのは、うなずけることである。

 

世界中どこの国家といえども、国民一人ひとりが

存在することで成り立っているのであるから、

 

その国民一人ひとりの活力を増大させるような

国の体制にすることが一番重要である。

 

そうすれば、国民の勤労レベル、教育レベル、

道徳レベルはいやが応でも高くなる。

 

そうなれば、当然、科学技術や産業技術もついてくる。

そうしてこそ、世界に冠たる日本を作れるのではないか。

 

西郷が言いたいのはこういうことである。

 

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まとめ

 

西郷は文明開化を進もうと思うなら、

わが国の本体をわきまえ、

 

風俗教化の作興に努め、その後、外国の

長所を取り入れるべきである。

 

国民一人ひとりの活力を増大させるような

国の体制にすることが一番重要である。

 

国民が主体性を持った民主主義を

つくろうとしていた。

 

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最後までお読みいただきありがとうございました

 

 

 

 

 

 

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