NHK大河ドラマ西郷どん 本名は隆盛ではなかった

 

明治維新から150年を記念して

林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん

歴史学者磯田道史に勧められて

見事に書き上げた原作の

最高視聴率は15,5%

 

 

 

 

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西郷どん 本名は隆盛ではなかった。

 

西郷の名前は隆盛として知られていますが、

それは明治になってからの名前である。

 

吉之助という名前が隆盛と改まったのである。

名前については明治政府から維新王政復古の

 

尽力を評価され、正三位の位階を授けられた時、

実際の本名は隆永であったが、担当官の手違いで

 

書面には実父の名前である隆盛と記されていてた。

それを見た西郷は「まあ、いいか」といった

 

具合に別段担当官をとがめて改めさせることも

なかったので、以降西郷隆盛が正式名称となった。

 

普通であれば名前の変更は権利関係の名義に

かかわる重大事であるので、改めさせ責任を

 

追及するはずであろう。西郷の事跡を見ていると、

自分自身が責任を取ればよいこと、

 

自身が我慢すれば済むこと、自分自身で

解決出来るなど己一身上のことに関しては、

 

些細なことにこだわらないというか、

軽く考えるようなところがあった。

 

西郷自身の中にある決断の優先順位が、

こと自分自身の持つ判断基準をもとに

優先順位を決めていく。

 

その人が何を基準に優先順位を決めているか

によって違った判断結果となって現れる。

 

 

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討幕という目的のためには、265年続いた

徳川幕府があまりに巨大に見えたため、

 

小異を捨て全力で各自戦わなければならなかったが、

江戸城無血開城により案外スムーズに行った。

 

戦争に戦争と長い内戦を経て、灰塵の中から

戦国乱世を信長のように勝ち上がった

 

革命政府ではなかった。そのため各自の小異が

頭をもたげ、各自の判断基準が自由に歩き出し、

 

必然的に派閥政争を演じていくのである。

そして征韓論争、西南戦争に至った。

 

西郷は50年の生涯の中で、幕府に追われ

奄美大島に身を隠さなければならなかったとき、

 

 

何回かその時々で変名している

 

菊池源吾と変名して大島に渡った。

その後何回かその時々で変名しているが、

 

少年期・青年期の多くを通称の吉之助で通し、

明治になっても吉日之助で通しており

 

明治5年亡父の借金返済のため貸主の板垣與三次あて、

明治六年叔父椎原與右衛門あて書簡には「西郷吉之助」

と記されている。

 

隆盛と改名してもなお、よほどの公的なもの

以外は吉之助と名乗り、

 

西南戦争で「晋どん、もうここらでよかろう」

といって別府晋介に首を打たせるまでは

吉之助サアー」と信頼と敬愛をこめた言葉で呼ばれ、

 

幕末動乱維新回天の中で働いているときは、

「吉之助の一諾」と西郷の伝記にあるように、

吉之助という名には西郷の全部と言えるほどの

思いと愛着と重みがあったのではないかと思われる。

 

 

 

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まとめ

地位や名誉より民のことを考えた方であると思います。

 

 

 

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