明治維新から150年を記念して
林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん
歴史学者磯田道史に勧められて
見事に書き上げた原作の
最高視聴率は15,5%
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人の一生はたかだか50年
「人間50年、下天(げてん)のうちをくらぶれば、
夢まぼろしの如くなり、一度生を享(う)け、
滅せぬ者あるびきか」この言葉に信長の生死観と
生き様が凝縮されている。
人の一生はたかだか50年そこそこである。
その50年も下天では一日の長さだという。
大宇宙の悠久の長さに比べたら、現代の人間八十年も
刹那(さつな)であり瞬く間である。
人間50年は朝起きて寝るまでの一日である。
その一日に何をなすべきで、何をなすことが
できるか、と断じ行動した。
活動する時間が限られているので、目的達成のため
にはスピード、効率、効果を考えなければならない。
人生の俗事(ぞくじ)や雑事に振りまわされる暇などなかった。
戦国乱世を平定し、平和を招来するために、
平定後の図面を俯瞰(ふかん)して、現在ただ今をどう戦って
いくかのみ集中していた。
本能寺の変「光秀謀反」
その過程に本能寺の変があった。
信長は森蘭丸から「光秀謀反」と告げられ、
「是非に及ばず」と答えたという。
弓で寄せてくる敵に矢を放ち、
矢がつきると槍で突き伏せぎりぎりまで戦い、
ころ合いを見て奥に下がり自ら火を放った。
敵は光秀ということで、自分の死は確定した。
しかし、
向後のことを考えると光秀に首を渡してはならない。
そして自ら生を閉じるまでは眼前に迫る敵を倒す
という武将としての仕事をする。
「是非に及ばず」という言葉には信長の
機械的な死生達観の響きがある。
一方、西郷は「生というものは天から授かる
ものであり、授かった生を天に返すのが死である。
生(命)が自分にあるのか、天にあるかだけの
ことであるから、生死は一体であり区別する
ものではない」と言っている。
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西郷は晋どん、もうここらでよかろう
西南戦争に敗れて郷里の鹿児島に帰り、城山に立て籠もった。
当初2万人を超えた軍勢も、立て籠もったときは300人余りになっていた。
6万人の政府軍が城山を包囲し総攻撃を開始した。
西郷のまわりには4、50人の将兵が残っていた。
前線に出て最後の戦いをしようと、
集中砲火を浴びながら山を降りて行った。
途中、銃弾が西郷の股と腹を貫いた。
敵弾を受けた時点で武士として敵と戦う
という面目は立った。
西郷はがっくりと膝をつき、かたわらにいた別府晋介に
向かって「晋どん、もうここらでよかろう」と
言って自らの首を指し、晋介に首を打たせた。
四方から銃弾が飛ぶかう中、他の将兵も
次々と斃(たお)れていった。
別府晋介と辺見十郎太が西郷の
前後に従って進んでいた。
辺見が西郷に「ここらでどうでしょう
(自刃しては)と聞いた。
西郷は「まだまだ、本道に出てから立派に
斃(たお)れよう」と答えた。
さらに進んで、ますます飛び交う弾丸が
激しさを増して来た。
再び辺見が西郷「ここらでどうでしょう」と
西郷に迫ったが西郷激は「まだまだ」と答えた。
安易に自刃はしない。生と死の境をぎりぎりまで
見極めたうえで、天から授かった生(命)を
十分活用したと断じ、
今、喜んで天に生を返すべきときと
「晋介どん、もうここらでよかろう」と発したのであろう。
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まとめ
西郷は、天から授かった生(命)
最後は喜んで天に返すべきであると考えていた。
信長は、自らの生を閉じるまで眼前に迫る
敵を倒すのが武将の仕事とした。
二人とも生に対しては最後までやり
遂げた姿が似ているのである。
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