明治維新から150年を記念して
林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん
歴史学者磯田道史に勧められて
見事に書き上げた原作の
最高視聴率は15,5%
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井伊直弼が一橋派と尊譲派を弾圧した事件
幕府の大老となった井伊直弼による安政の大獄で西郷は、幕史に追われる身となった。
西郷とともに将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動に尽力した
京都の清水寺成就院の住職月照もまた、幕府の追及を受けるようになった。
島津斉彬の依頼を受け月照は、西郷や仲間同志らを近衛家や
朝廷の公家に取り次ぐ役目を果たしていたのである。
世に言う安政の大獄の嵐が吹き荒れる京で月照が
万が一捕らえられては大変だということで、
西郷は近衛忠煕に月照の庇護を頼まれる。
これより数ヶ月前の1858年(安政5年)7月、西郷が師父のごとく
慕い尊敬してやまない藩主斉彬が急死した。
このとき西郷は殉死しようとしたが、斉彬の志を継ぐことが
大切だと月照に諭され殉死を思いとどまった。
西郷は、先君斉彬と月照の関係を考えたら薩摩藩は月照を
保護してくれるはずである思い、月照を伴い鹿児島に帰った。
しかし、鹿児島では藩主斉彬がすでに
亡くなっていたこともあり、代が変わった。
反斉彬派ともいうべき旧守派に 政権が入れ代わっていた。
そして前藩主の懐刀として活躍していた西郷をかえって邪魔者扱いにした。
また月照に対しては庇護するどころか幕府の嫌疑を恐れるあまり、
関外の地である日向(宮崎)への追放処分とした。
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西郷は月照とともに鹿児島から船で日向に出発することなった。
この間、西郷は藩の変節に憤り激しく抗議した。
時は1858年(安政5年)11月15日夜(現在の暦では12月19日)
船は相当大きく、乗船した者は西郷、月照、月照の従僕重助、
付き添いの足軽坂口周右衛門、そして西郷と親交がある
筑前福岡の志士平野国臣であった。
日向にむけ船はよる8時ごろ出船した。一同に酒肴が出され酒宴が始まった。
船は真っすぐ北に進んでいる。西郷と月照は期するところがあり、
暫くたって皆が寝静まるのを見計らい船首に出た。
船上には船尾で舵を取る船子だけである。
西郷と月照は冬の海に身を投げ入れた。
しばし船上にいたが、二人はむき合っ互いの肩を手で組み合い、
船子のすきを見て12月の真っ暗な冬の海に身を投げ入れた。
突然、ドッボンという大きな水音がした。「あっ」と船尾の船子が叫んだ。
水音と叫びを聞いた付き添いの坂口が跳ね起きて船上に出ると、
西郷と月照がいない。
「しまった」と坂口は事態を察し、とっさに身近にある船板をはがして
海になげ入れ、二人が飛び込んだ場所の目印とした。
船は進んでいる。急いで帆綱を切り船足をとめさせた。
船は引き返し、浮いている船板の周辺をぐるぐると探した。
夜の海である。なかなか見つからない。
だいぶ時間がたったが諦め切れずに探し続けた。
そうしていると、ゴボッゴボッと水音がして、突然海中から西郷と月照が
肩を組みあったままの姿で浮き上がってきた。
「それっ」と急いで二人を船に引上げたが、ともに呼吸は絶えていた。
坂口は船から一番近い沿岸の村に船をつけさせ、住民をたたき起こし
体を温めさせ、考えられるかぎりの応急処置をほどこした。
一時間ばかりして若く体力のあった西郷だけがやっと息を吹き返えした。
しかし、月照はよみがえることはなかった。西郷32歳月照45歳であった。
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まとめ
本当の意味で西郷はすべてを捨て去り、
完全に一度死んだ人間であった。
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