明治維新から150年を記念して
林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん
歴史学者磯田道史に勧められて
見事に書き上げた原作の
最高視聴率は15,5%
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遣韓使節諭
西郷が「征韓」という言葉を使ったことも、口にした
こともないということは資料で証明されている。
しかし、「征韓」という言葉は使っていなくとも、
全権大使として西郷が開国の説得に行くと言っているので、
当地で西郷が殺されたら朝鮮と戦争になるのは必定である。
また本人も死を覚悟していたという伝聞がある。
これらのことからとにかく西郷が朝鮮に
行けば戦争になるという前提のもとに、
維新設立間もない時期に戦争はすべきではないという
「内治優先派」が現れ、「征韓派」と論争する
格好になってしまった。
普通に考えても、1873年(明治六年)のこの時期、
無謀な征韓論と内治優先では内治優先の方に
筋が通っているのは明らかだ。
征韓論は西郷が下野し何も語らず、四年後には
西南戦争となり賊軍の将として死んだため、
その真意はいまだに分かっていない。
しかしながら、人間には思考・行動のパターンがある。
幕末第一次長州征伐のとき、征長軍総監・徳川慶勝
から長州処分の全権の委任を受け、
単身広島に行き長州藩幹部に会い寛大な処分を
決定した。
そして江戸城無血開城、山形荘内藩に対する寛大な処分、
これらのいずれも歴史が証明するように良い結果となっている。
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西郷は「未開の国に対しなば、慈愛を本とし、
懇々説諭̪して開明に導くべき」と言っている。
朝鮮に対してもそのようであらねばならず、
よもや西郷が言行に反しているとは思えないのである。
征韓論争は感情の入った権力闘争である。
しかしながら、その勝者がその後の日本を
つくったのも事実である。
いわゆるこの明治六年の政変は原点に戻って
検証しなおさなければならない。
そうすることによって、日本が新たに進むべき
道の指針の一つになるはずである。
最後に、大久保が木戸に対して、「西郷さんが責任を
持って朝鮮に行くと言うのだから、何も心配することはない。
戦争などあり得ない。万事、西郷さんがうまくやって
くれる」と説得してくれたら、
あるいは留守政府が約束を守らなかったことに対し
「西郷は下関で待機せよという久光の命令も
無視するぐらいだから、
また政治は政治は生き物とも言うし、
われわれは留守政府にまかせっきりにして
外遊したことでもある。
政治がよくなっていることでもあるから、しょうがない
ことである」と大久保が西郷を許したら、
その後の日本の歴史は変わったであろう。
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まとめ
西南戦争で西郷が賊軍の将として死んだため
遣韓使節諭は分かっていないままである。
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