明治維新から150年を記念して
林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん
歴史学者磯田道史に勧められて
見事に書き上げた原作の
最高視聴率は15,5%
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政治は誰のために行なうのか
こう問われたら、西郷であれば即座に「国民のためである」と答えるだろう。
現在の日本は主権在民、国民主権である。
政治家は主権者である国民一人ひとりの主権の代行者として存在している。
地位や名誉のためであってはならない
日常生活に追われている普通の一般の国民は、生治や国のことを
ほとんど考える時間がなく、国の経営まで頭がまわらない。
だから政治家に国の経営を委託し、業務を代行させているのである。
いわば日本の命運を生活家にゆだね、大げさに言えば自らの命を
預けていることになる。政治家とはそれほど重大な仕事である。
ゆえに西郷は、その行動が地位や名誉のためであってはならず、
ましてや金のためであってはならないと言っている。
政治とは、直接に国家の盛衰にかかわり、
国民の幸不幸を左右する重要な仕事である。
古来、その時代その国に人(政治家)を得るか否かで国家の
存亡が決まるともいわれている。
しかしながら、日本のような民主主義の国であっても政治家には
権力が集まり、そしてその権力を行使できる仕組みになっている。
政治というものは権力の行使が伴うもの
政治家というものが、地位も名誉もあれば、金も集まり
ひとつの財産として子々孫々に受け継がせたいものと、
政治家自身が思ってはいないだろうか。
現在の世界を見ても、十八世紀十九世紀の封建時代や
帝国主義の時代ではないかと思えるほどの独裁体制を
とっている国も現実にある。
国家というものではなく、独裁者一家が国の様相を
形作っているだけで、
そして国民はまさに一家の下僕と化している国もある。
主権在民という民主主義の日本ではあるが、
一人ひとりの国民が面倒なようでも主権在民の意識を持ち、
政治家に主権の執行を代行させているのだという自覚がなければ、
愚民政治に流される可能性がある。
結局はその国の国民のレベルに応じての政治となる。
政治というものは権力の行使を伴う。
国民が政治家にその行使を委ねて、
かえって国民が苦しめられる場合もある。
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政府に私心をさしはさんではならない
政府にあって国のまつりごとをするということは、
天地自然の道を行なうことであるから、
たとえわずかであっても私心をさしはさんではならない。
だからどんなことがあっても心を公平に堅く持ち、
正しい道を踏み、広く賢命な人を選んで、
その職務に忠実にたたえることのできる人に政権を
とらせることこそ天意である。
だからほんとうに賢明で適任だと認める人がいたら、
すぐにでも自分の職を譲るくらいでなくてはいけない。
従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人に
官職を与えてほめるのはよくないことの第一である。
官職というものはその人をよく選んで授けるべきで、
功績のある人には俸給を与えて賞し、
これを愛しおくのがよい、と翁が申されるので、
それでは尚書(中国の最も古い経典、書経)
仲虺(殷の湯王の賢相)の誥(官史を任命する辞令書)の中に
「徳の高いものには官位を上げ、功績の多いものには褒賞を厚くする」
というのがありますが、徳と官職とを適切に配合し功績と
褒賞とがうまく対応するというのはこの意味でしょうかと
たずねたところ、翁はたいへん喜ばれて、まったくその通りだと
答えられた西郷のこの言葉を見ると
大久保や岩倉や木戸、山県、大隈と言った明治政府の中枢の
人たちが正常であり西郷は異常である。
権力は闘争と権謀術数で手に入れるもので、
いったん握った権力や権限は放さない。
西郷の考え方は普通ではなく異常でしょうか
己のスタンスで政治は行うべきで、多少の役得は当然のことである。
それなりの地位と名誉と報酬は当たり前で、
税は取れる者から取れるだけ取っておく。
これが普通である、
とするのが大久保や岩倉の考えであれば西郷の考え方は
普通では持ち得ない考え方になり異常であろう。
大久保、岩倉、木戸らの人間は、日本史の中でも世界史の
中でも類型がある人物である。
政治を天道を行ふもの、正道を踏むと考える
人は現代の日本でも世界でもない。
政治に対する考え方が明らかに他の人たちとは
違っており、自分をどう処理したらよいか、
政権内で独り浮き上がって悶々としていた
西郷の様子が目にうかぶようである。
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まとめ
西郷は政治は地位や名誉お金のためであってはならい。
国民のためになる適任者を選ばなければならない。
政権内では政治に対する考えが他の人との
違いに差が大きく、苦労した様子が見える。
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