西郷の外交政治自ら朝鮮に行き、平和的に 開国の利を説こうとした

明治維新から150年を記念して

林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん

歴史学者磯田道史に勧められて

見事に書き上げた原作の

最高視聴率は15,5%

 

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西郷の外交

明治六年の政変で西郷が下野した後は、
大久保の思うままの明治政府となった。

 

1874年(明治七年)5月22日には、
しなくてもよい台湾出兵をしてしまう。

 

西郷の弟、陸軍中将従道を台湾藩地事務都督
とし、三千六百人の兵と軍艦による遠征であった。

 

そして、ペリーがかって日本を開港させたと同じ方法で、
朝鮮に1876年(明治九年)2月26日「日朝修好条約」を結ばせ、
釜山ほか二港を開港させた。

 

西郷が一番嫌う方法で開港させた。

 

しかも欧米列強の武力に屈して日本が結んだのと同じ
不平等条約を未開の国に対して押し付けたのである。

 

西郷は遺韓使節として自ら朝鮮に行き、平和的に
開国の利を説こうとしたのである。

 

「情けない。日本の道義も地に落ちた」と
憤りそして嘆くであろう。西洋は野蛮である。

 

文明国なら、未開の地に対するほど、親切
丁寧に道を説き開明に導くべきである。

 

そうでなく武力をもってするとは日本国も野蛮である。

 

大久保・岩倉政府のやり方にこう怒ったであろう。

 

この延長線上に日清・日露の戦争があり、日韓併合、日中戦争、
太平洋戦争となり、結局は二十世紀の欧米列強に屈することになる。

 

大久保・岩倉・木戸・大隈・伊藤・山県のレベルでは
欧米列強に対するには力不足である。

 

斉彬や西郷レベルでないと無理である。

 

これは二十一世紀の現代でも変わらないであろう。

 

西郷「道を行なうには西洋東洋の区別はない」と言っている。

 

日本が世界に冠たる道義の国となり、野蛮な西洋に
文明を広めてはどうであろうか。

 

『遺訓』十七項

 

次の文章には西郷の外交に対する考えが表れている正しい道を踏み
国を賭して倒れてもやるという精神がないと、外国との交際はこれを
全うすることはできない。

 

外国の強大なことに恐れ縮こまり、ただ円滑にことを収めることを
主眼にして自国の真意を曲げてまで外国の言うままに従うことは、

あなどりを受け親しい交わりがかえって破れ、しまいには外国に
制圧されるに至るであろう。

 

 

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『遺訓』十八項

 

話が国のことに及んだとき、たいへん嘆いて言われるには、
国が外国からはずかしめを受けるようなことがあったら、

 

たとえ国全体でかかってたおれようとも正しい道を踏んで
道義を尽くすのは政府の努めである。

 

しかるにかねて金銭や穀物や財政のことを議論するのを聞いていると、
何という英雄豪傑かと思われるようであるが、

 

血の出ることに臨むと頭をひところに集め、ただ目の前の
気休めだけをはかるばかりである。

 

戦の一字を恐れ政府本来の任務を果たせないようなことがあったら、
商法支配所すなわち商いの元締めというようなもので、
一国の政府ではないというべきことである。

 

 

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まとめ

道を行なうには西洋も東洋の区別はないと言っている。

西郷が下野した後は、大久保の思うままの明治政府となった、

しなくてもよい台湾に出兵し、釜山ほか
二港を開港した事、これを西郷は嫌った。

日本が世界に冠たる道義の国となることなどの、
外交に対する考え方はつねに西郷の頭にあったのだ。

 

 

 

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