チバニアン見学会 現地の写真撮影 civanian kigakuki genchino shamisana

チバニアン見学会 現地の写真撮影

チバニアン見学会の写真撮影  現地まで案内にしたがって向かう途中の参加者

チバニアン見学会 現地の写真撮影 civanian kigakuki genchino shamisana

チバニアン見学会 現地の写真撮影

チバニアン見学会の写真撮影 茨城大学教授 岡田誠教授の現地調査など何度となく現場を訪れたこれまでのご苦労などをお話をされました。現地では参加者に詳しくご説明をして頂きました。


NHK大河ドラマ西郷どん 西郷の思想と信長の思想の決定的な違い      

こんにちは
WordPress見本市ブログです

明治維新から150年を記念して

林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん

歴史学者磯田道史に勧められて

見事に書き上げた原作の

最高視聴率は15,5%

 

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西郷の思想と信長の思想

 

信長は徹底した無神論者である。

 

人間の生命はこの世で生きている限りのものであり、

死ねば灰となり無であると考えている。

 

信長は趣味として舞は『敦盛』を一番舞うのみで、

小唄は「死のふは一定いちじょう、しのび草には

何をしよぞ、一定かたりおこすよの

 

(死は必ず訪れる。死後、私を思い出してもらう

よすがとして何をしておこうか。

きっとそれを頼りに思い出をかたってくれるだろう)

のみを唄っていたと信長公記にある。

 

『敦盛』にあるように、人間を50年と断じ、

何人にも平等に訪れる死に対して、

その期間に己が何をするかが人生であり、

 

そして人生の舞台で己の「テーマ」を演じることが

人生そのものであると考えたのではないだろうか。

 

信長17歳のとき父の信秀が死去し、万松寺で盛大な

葬儀が行われた。

 

『信長公記』には旅の修行僧も多数参会し、

僧侶の数は300人に及んだと記されている。

 

喪主信長がいない?

 

焼香のときになったが喪主信長は現れない。

 

やむなく弟信行に焼香の順を変えようとしたときに、

突然信長が現れた。

 

その時の信行の出で立ちは、長柄の太刀と脇差しをわら縄で巻き、

髪は茶筅髪ちゃせんがみに巻き立て袴もはかない。

 

親族や一族が居並ぶ中、仏前に進みて、

焼香をかっとつかんで信秀の位牌へ投げかけて帰った。

 

後に、信長が戦国乱世を平定したとき、安土城の中に

捴見寺そうけんじを建て信行自信を御神体として祭り、

安土城に来る人々に拝ませたという。

 

これは、信長の領国を庶民が自由に往来でき、

戦国乱世を平定し平和を招来したのは、

神や仏ではなく信長であるということを

暗に分からせる意図があったのではないか。

 

本能寺の変

 

しかし、まわりの人々は神も仏も敬わぬとは

僭越せんえつな思い上がりと不快に感じた。

 

この信長の神をも恐れぬ思想によって、

何をするか分からない危険人物と見なされ、

 

当時の朝廷・公家ら既得権益者に

信長排除の作用が働いた。

 

これが本能寺の遠因ではなかったのではないだろうか。

 

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西郷は信長とは違った

 

信長のように無機質的な思想ではなく、

生死は天が付与するものであると考えた。

 

天という万物を生成育成する善なる意志が、

万物の生と死をつかさどっていると考えた。

 

西郷は沖永良部島に流されていたとき、

 

「獄中有感(獄中に感有り)と題する漢詩の中で

 

「生死何ぞ疑わん、天の付与なるを」と言っている。

 

月照との入水事件で死んだと思っていて、

生き返らされたこと。

 

沖永良部島で囲い牢の

中にあって、自己の運命を試すかのごとく、

 

死と自ら対峙したにもかかわらず、再び生を得たこと。

 

奄美大島や沖永良部島での人々の身に余る親切・

思いやり・やさしさに接し、これらも天の慈愛であり、

 

「敬天愛人」は天の慈愛である

 

自信が天により生も死もなく生かされていると感じたこと。

 

主にこれらのことを材料として醸成されたのが、

後の「敬天愛人」の思想になったと思われる。

 

西郷は、土持政照から与人(村長)や

間切横目(郷中監査役)の心構えを問われて、

 

天の思想に基づき『与人役大体』『間切横目役大体』を

書いて心構えを教えている

 

「西郷の役人諭に基づくところは、それが敬天愛人の

哲学であり、哲学であり、天に対する信仰である

 

敬天(天に対する信仰)と愛人(民に対する無私の愛)

とが、彼においては一体化し、楯の両面となった。

 

彼はこの自らの哲学によって天皇の本質を説き、

諸侯の本質を説き、役人の本質を説いている。

 

「役人たるものは、天の本質である仁愛を体して、

その具現をすべきであるというのである。

 

諸侯もまたしかり、天皇もまたしかりである。

 

だから、役人の場合は、もし上役、たとえば代官が民に

対する愛という点において納得の出来ないことを要求する

 

ようなことがあったら、納得の行くまで問い返し、

諫言かんげんせよというのである。

 

西郷の『与人役大体』にある諫言をするという意味で、

政府に反省を求めての行動が西南戦争に発展したのである。

 

西郷の考えの根底に民に対する愛がある以上、

不正義は許されないことであり、

 

それを座視することは思想に忠実であればあるほど、

できないことでえある。

 

西南戦争

 

西南戦争は当初、明治政府に反省を求めるための

行動であり、それが戦争に発展したのである。

 

その原因は西郷の思想もまた大塩平八郎的要素を

多分に含んでいたための結果であるともいえる。

 

 

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まとめ

 

信長の神をも恐れぬ思想に対して

西郷の敬天、天に対する信仰であり

その思想の違いははっきりとしていた。

 

 

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