西郷どん,明治維新後は江戸城にのぼり、開城引き渡しを受けた

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明治維新から150年を記念して

林真理子のNHK大河ドラマ西郷どん

歴史学者磯田道史に勧められて

見事に書き上げた原作の

最高視聴率は15,5%

 

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明治維新後の西郷は

 

1868年(明治元年)4月4日、西郷は勅使橋本実梁を

奉じて江戸城にのぼり、

 

徳川本家16代を継いだ家達より開城引き渡しを受けた。

 

5月15日上野彰義隊の討伐、8月から北陸出征、

9月14日米沢藩、9月24日会津藩、

 

9月26日荘内藩、が降伏した。西郷は11月鹿児島に帰る。

 

1869年(明治2年)1月伊地知正治の大久保あての手紙に

「西郷入道先生も既に4,50日、日当山湯治、犬4,5匹、

壮士4人同道の由」とある。

 

このころ西郷は頭をまるめて、坊主となっていた。

 

1869年(明治2年)5月1日、函館五稜郭討伐のため

応援兵士を引いて鹿児島出発、25日に函館到着。

 

すでに18日に榎本武揚らは投降していたため、

6月15日帰国する。

 

 

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東北諸藩の降伏で完全に討幕は終了

これより一年半に及ぶ戊辰戦争は終結したのである。

 

1870年(明治3年)2月、山口における

奇兵隊反乱事件の形勢監察に出長する。

 

東北諸藩が降伏したことで完全に討幕は終了した

ので自分の役目を果たしたと思い郷里に帰り、

政界から身を引く決意で頭をまるめたのであろう。

西郷は権力闘争がいやであり、権力闘争をする気はなかった。

鳥羽・伏見の戦いのときから、すでに薩長の主導権争いがあった。

 

それに加え後発の土佐藩と佐賀藩は討幕後の

新政権内での勢力拡張を狙って、

薩長との権力争いを演じていた。

 

新政府発足後もこの様態は変わらず、かえって

権力闘争は激化し、権謀術数が渦巻いていた。

 

1870年(明治3年)7月27日には、旧薩摩藩士・

横山安武(初代文部大臣森有礼の実兄)が、

 

新政府の腐敗を批判して割腹し諌死けんしするという事件があった。

 

また、このころ政府の高官が利権と蓄財に走っているさまを見て、

「義のための戦いであったはずの戊辰戦争が、

これでは利のための戦いとなってしまっている。

 

戦死者に対し申し訳ないことである」と、

しきりに涙を流したと「遺訓」にある。

 

このような政府には西郷はいたくなかったであろう。

 

仮にいたら、西郷のような純正な人間は義憤を感じ

第二の維新でも起こしかねなかったであろう。

 

それよりは、上野の銅像にあるような姿で犬を連れ、

奄美大島で習った狩りをし、

 

温泉につかって世騒を忘れることを好んだのであろう。

 

これは見方によれば西郷の欠点であり弱点でもある。

 

本当に西郷が目指す道義国家を建設したければ、

権力闘争は望むところであるとし、

 

その戦いに勝ち抜き絶対の権力基盤を確立した

上でなければ

 

自己の理想とする国家など成立させ

得るものではない。

 

ぎょうしゅんのような権力の禅譲ぜんじょうなど欲望渦巻く

権力闘争の中ではありようがない。

 

西郷はそういった意味では、維新後は中途半端で

あったと言われても仕方がないであろう。

 

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まとめ

 

西郷は東北諸藩が降伏したことで完全に

討幕は終了したので自分の役目を果たしたと

思い郷里に帰った。

 

西郷は権力闘争がいやであり、権力闘争をする気は

なかった。そして

政界から身を引く決意で頭をまるめたのであろう。

 

 

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